不登校の背景
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学習指導要領 算数その1 学習指導要領 算数その2 学習指導要領 算数その3 通知表・評価の仕組み |
学校とは何か 失われた子どもの生活 |
今日、13万人もの小中学生が、高校生まで含めると20万人の子どもたちが不登校になっています。
なぜ不登校になるのでしょうか。
注目すべき2つの指摘があります。
1つは、文部科学省の見解です。もう1つは、国連子どもの権利委員会の日本政府への勧告です。
文部科学省は過去2回、不登校に関する調査研究協力者会議を設置し、不登校に関する調査を行い、報告書をまとめました。その2回の報告書の中で、「不登校は、誰もがなりうる。」との見解を示しています。
不登校が社会問題として注目されだしたころは、特定の課題を抱えた子どもが不登校になるかのように捉えられていましたが、調査の結果、そのような傾向は否定されました。どのような子どもでも不登校になっているし、またなる可能性があることがわかったのでした。
しかし、不登校は、本人や家庭の問題として捉えられる傾向は、今日でも厳然としてあります。
本人や家族にとっては、自らが乗り越えなければならない課題であっても、そこに原因を求めては、不登校という社会問題を解決する糸口は見つからないでしょう。
不登校という社会問題を解く糸口は、もう1つの国連子どもの権利委員会の日本政府に対する勧告にあります。国連子どもの権利委員会は、日本の子どもたちは、「過度の競争主義的な教育制度」の下におかれ、さまざまな子どもの社会的問題を生み出している、と指摘し、その改善を迫っています。
敢えて短絡的に結びつければ、「過度の競争主義的な教育制度」の下で、今日、誰もが不登校になる可能性がある、と言えるのではないでしょうか。
過度に競争主義的な教育制度とは、いったい何を指しているのでしょうか。
これは、主に高校受験、大学受験を中心とした受験競争を指していると思われます。
しかし、現実には、これに止まらず、高校を中心に進められている学校制度の改革の中にも、評価制度の中にも、教育課程の中にも競争主義が貫かれ、子どもたちは、学校教育を受けるようになると同時に競争の中に身を置くことになります。意識するとしないにかかわらず。
高校制度
能力主義的再編が進められています。
スーパーサイエンスハイスクール、スーパーU類(超特進)の設置、中高一貫校の設立など、エリート教育推進の高校制度改革が進んでいます。一方で、既存の普通科等を総合学科に改編し、自己決定、自己責任を教育課程に持ち込みました。
義務教育
義務教育の小中学校では、高校のような露骨な能力主義的な制度改革はできません。選択制の導入や習熟度別授業の導入程度です。
高校の能力主義的再編や高校入学選抜における推薦制度は、内心点を意識した受験競争を生み出しています。それは、単に教科の学習のみならず、クラブ活動や特別活動など生活全般に及びます。学力は、学校ではなく塾でつける中学生は半数を超えます。(内閣府調査)
さらに、中高一貫校の制度化は、小学生の意識や生活にも変化をもたらしつつあります。中高一貫校の説明会には、40人の定員に対して1000人近い参加があったそうです。
スーパー小学校の出現
京都では、立命館や同志社大学が付属小学校を開設することになりました。超豪華な施設設備もさることながら、入学に際しての費用はとても一般市民には負担できない額です。単なるエリート育成ではなく、富裕層対象の教育機関の出現です。
このように教育制度の一面を概観しただけでも、教育における競争を勝ち抜くためには、個人の能力ではなく資産の有無がものをいうようです。そして、一般市民は、勝ち抜くために能力主義的競争に励むことになります。
どの高校に行くかは、子どもの未来を大きく左右しますので、子どもも親も、意識するとしないにかかわらず、競争に巻き込まれるしかありません。
教育制度だけではありません。子ども達が、学校で、日々学習する内容を決めている学習指導要領や学習評価のあり方も見なければなりません。専門的なことは、専門家に任せましょう。身近なところから考えましょう。
小学校に入学する時には、せめて自分の名前が読めて、書けるぐらいができていればいい時代がありました。今は、ひらがなの読み書きができていて当然のような風潮です。2年生になっても、ひらがなは書けるけれども、カタカナはおぼつかないという子ども達を多く見かけます。
1年生では入学早々にひらがなを学習して、その後、カタカナを習います。2学期になると、漢字の学習が始まります。1年生では80字の漢字を習います。ひらがなとカタカナ、漢字を合わせると1年間で200以上の文字を身につけなければなりません。その他に数字もあります。2年生で習う漢字が160字ですから、量的に見ただけでも、1年生の負担が分かります。
これまで、言葉だけが表現伝達の手段だった子ども達にとっては、文字の獲得は、とても嬉しいことです。子ども達は、喜んで文字の学習をします。漢字を学習する時の子ども達の顔も得意気です。新しい知識の獲得は、子ども達の欲求であって、意欲的にするのでしょう。
ひらがなやカタカナがどのようにして出来たかは、もう少し知的な発達を必要としますが、漢字の学習は、子ども達の知識や文明に対する好奇心と知的欲求を高める絶好の機会です。一年生や2年生の時期は、学ぶことの意欲が旺盛な時期ですからなおさらです。
山や川の漢字がどうして生まれたかに、子ども達は、感心します。そうして、漢字には、1語1語に意味があり、物事の理解や表現をより深め豊かにする働きがあることを知ります。子ども達は、より多くの漢字を理解し、読み、書けるようになることを望みます。
しかし、学習することが喜びから、苦痛に感じる時が、遅かれ早かれやってきます。多大の努力をしなければ、漢字を書くことができないことを、子ども達は思い知らされます。
そのように、学習指導要領には、漢字が配当されています。好きな饅頭も食べ過ぎると食欲がなくなり、饅頭を見るのも嫌になることがあるでしょう。消化不良を起こすと、体を壊してしまいます。文字や漢字に十分慣れ親しんで、自信と意欲が出てくれば、後は放っておいても身につくものを、これでもか、これでもかと饅頭を食べさせようとするような、配当の仕方です。
子ども達の国語の教科書があれば、開いてください。進出漢字がやたらに多く出てくるページがあります。指導要領によって配当されているから、消化しなければならないから、とってつけたように漢字ばかりのページを作っています。
日本語にとってとても大事な漢字が、誰もが書けて使えるようになれるという風に考えられているわけではありません。
教えることも、習熟することも、到底無理と分かっていながら、漢字学習が行われています。その大本が学習指導要領です。そしてそれを基準にした教科書です。
現行の指導要領は、漢字習得の困難さが分かっていますから、たとえば、3年生で習う漢字は、200字あるのですが、3年生では読めるようになればいい、4年生で書けるようにすると、読めることと書けることを分離しました。3年生では、新しい漢字の読み方を練習し、2年生で習った漢字を書けるように練習するという変則的な学習をしなければならなくなりました。
このことは、教育現場で混乱を引き起こしました。
先生達も、通常の学習時間では、漢字の習得が困難なのを知っていますから、漢字学習に工夫をしています。教科書の記述に関係なく漢字練習の計画を立て、1日に2個ずつ練習すると言うふうに。これならば、なんとか1年間で、200個の漢字の練習が可能になります。しかし、今教科書で学習していることと漢字学習が分離してしまいます。漢字学習ノートが大流行です。
子ども達は、大変です。毎日毎日、宿題で漢字練習。そして、学校へ行っては、朝学習で漢字学習。宿題を忘れようものなら、休み時間や放課後にその日のことは、その日のうちにとやらなければなりません。そして、漢字テスト。今では、漢字大会が大流行です。合格点をとれればいいですが、とれなければ、再試験。合格するまで、受けなければなりません。漢字の習得での自己責任が問われます。
漢字の学習が、国語の学習と切り離された形で進んでいきます。良い点を取るために練習し、良い点を取ったら誉められる。良い点がとれなければ、いわば罰が待ちうけている。こうした環境の下で、どうして自信や意欲が出てくるでしょう。
1980年代の臨時教育審議会に始まる「教育改革」の流れの中で、教育政索に携わる国立教育政索研究所の研究員が、指導要領は、全ての子ども達が出来るようには作られていません。3割の子ども達が理解できれば良いという基準で作っていると公言しました。
先生達は、学習することを総べて身につけさせたいとがんばります。その結果、小学校での学習通過率は8割になっています。文科省の基準からすると大幅な引き上げです。先生達の努力の賜物ですが、それだけ子どもたちが無理をしていることの証明でもあります。
(日本の子ども達の学力が落ちているそうです。文科省は、先日、学力対策として、読解力の向上を全教科を通して行うという方向性を示しました。でも、教育現場で心配されている学力の低下は、読み書きと合わせて分数の計算が出来ないなどの基礎的学力の未定着です。)
5.学習指導要領 算数その1 (2005.10.31)
算数は、先の指導要領改訂の中で、物議を醸し出しました。
発展的学習の補助教材をめぐってでありました。
この議論の中で、学習指導要領は、その基準性を失ったと言えます。つまり、発展的学習の内容が別途作成されることとなりました。
しかし、これは、意図的なものといえるのではないでしょうか。
学校5日制に伴って、学習内容の精選、軽減として、学習内容を削りました。当然、学校現場の教師や父母から、学力不安の声が起こりました。すると、待ってましたとばかりに、削ったはずの学習内容や単元を、発展的学習として扱っても良しとする見解が出されました。発展的学習用の冊子も出されました。(なんと準備周到なことか) 明らかに、習熟度別授業を意識した政索変更です。
たとえば、台形の面積の学習は、5年生の面積の学習からは削られました。
4年生で正方形と長方形の面積の学習をします。5年生では三角形と平行四辺形及び円の面積を学習します。台形の面積は削られ、発展的学習の教材とされました。
普通、面積は、三角形の面積の求め方が分かればほとんどの面積を求めることが出来ます。正方形や長方形、平行四辺形や円の面積も、面積を求める公式を使わなくても、三角形の面積の求め方さえ分かれば求めることが出来ます。
小学校で正方形、長方形の面積をはじめに学習するのは、面積の概念を明確にして、求め方を合理的に理解できるようにするためです。しかる後に三角形や平行四辺形の学習をするのは、より複雑な形の面積も、合理的に求めることができることを証明し、論理的な発展へと導くためです。台形や円の面積も、より発展的な学習への入り口なのです。
しかし、文部科学省は、発展的な学習とそうでないものとを線引きしてしまいました。
普通の子ども達は、ここまで分かれば良いのですよ。よくできる子はこんな勉強もしましょうね。学習内容の線引きは、子ども達をできる子、できない子と線引きすることになります。
今日の学力問題に対して、文部科学省は、その根本問題には目を向けずに、このように、能力主義的な教育の導入に利用しようとしているのです。そして、それは、すでに、始められています。「ゆとり教育」と称して。それはまた、小人数授業や習熟度別授業、あるいは、選択学習などとも言われています。
算数は、日常生活に必要な知識や技術の獲得だけでなく、論理的な思考力や判断力を培う上でも大切なものです。
子どもの時期、心も体も発達成長する時期です。脳の働きもそうです。未完成なのではなく、発達と上にあると言えます。ですから、その発達に見合った学習の設定が必要です。
一応、学習指導要領もそのような形式をとっています。学年毎に学習する事柄が配置されています。
では、時計の学習は、何年生でするのが良いでしょう。前々回の指導要領改訂のときに問題になりました。その時は時計の学習が2年生に配置されたのです。まだ、九九も習っていない子らに、2時30分と読むことを理解しなさいということは無理でしょうと。30分と読むには6×5の計算ができなければならないからです。
子ども達に読み方を教えるのに教師もも親も必死になりました。どうしても覚えられない子には、「今覚えられなくても、いつか読めるようになるよ。」と励まさなければならないほどでした。それ以後、時計を読むことは、小学校入学前の課題として過程で担われるようになっているように思えるのですが。
九九を覚える苦労もひとしおです。30年ほど前までは、九九は3年生で半年かけて学習していました。それ以後2年生で学習するようになりました。それも、2ヶ月で学習するのです。先生達は、子ども達ががんばって覚えるよういろいろな工夫を凝らしています。九九カード、百ます計算など。休み時間には、担任以外の先生に聞いてもらい、合格シールをもらいます。子ども達は張りきってやります。できることは嬉しいことですから。しかし、いつも、どのクラスにも最後までできない子がいるものです。その子らにとっては、九九の勉強(練習)がどれほど辛いものでしょう。いえ、すらすら言えるようになった子の中にも九九の仕組みがどれほど理解できているのでしょうか。2ヶ月での学習では、覚えることだけで精一杯です。
子どもたちの発達の状況に応じて、学習内容を決めて、学習に必要な環境や条件を用意することが必要なように思えるのですが、実際は、そうはなっていません。むしろ、予め学習内容や学習計画が設定してあり、それに合わせて学習するようしているように思われます。
かけ算の九九の学習で見れば、2の段から学習を始めて、1時間ごとに5の段、3の段などと進んでいきます。その習熟は、休み時間や家庭学習の課題となります。子どもたちにとっては、かけ算の仕組みや意味よりも、九九を覚えることが主たる目的となります。
漢字の学習と同じことが、ここでも起こっています。この学習を通して、子どもたちにどんな力を培っていくのかよりも、漢字を覚えることや九九が言えるようになることが重要なことのように。
学校では、今、授業以外に、学習時間を設けて漢字練習や計算練習、読書などに当てています。授業と宿題だけでは賄いきれなくなっているのです。ドリル学習に先生も子どもも追われています。これをやれば学力がつくとでもいうように。
教育課程審議会では、数学家の鈴木 仁さんが、「かけ算やわり算などの学習では、大きな数の計算を学習するよりは、基本的な事柄がしっかり身につけることが大事だ。」と主張されたそうです。九九と2けた×2けたのかけ算ができると、後は、それを応用することによって計算することができます。その応用する時間を十分いとって学習計画を作ることができれば、基礎的な知識や計算力とともに思考力をも伸ばすことができるはずなのに。
子どもたちの発達段階を無視した学習指導要領は、子どもたちに無理な学習課題を背負わせ、学習意欲を衰退させ、学力低下をもたらしていると言えるのではないでしょうか。
では、なぜ、このような学習指導要領がまかり通っているのでしょうか。ここで、再び、2人の方の発言を思い起こしましょう。
「学習指導要領は、全ての子どもが理解できるように作ってはいません。3割の子どもが理解できることを基準にしています。」これは、学習指導要領作成に携わった国立教育政策研究所の研究員が語ったことです。
「一握りのエリートがこの国をリードしていく。非才、無才、凡才は実直な精神を養っていればいい。これからは、できる子を伸ばすことに力を入れる。・・・エリート教育とは声を大きくしていえないから、『ゆとり教育』と呼ぶことにした。」これは、前教育課程審議会会長の三浦朱門氏の言葉です。
以上、簡単に見てきたように、学校・教育制度も教育課程・カリキュラムも全ての子どもたちの成長や発達を保障するものではなく、むしろ、ごく少数のエリート育成のためのものと考えられています。私たちは、教育政策に注意深く目を向ける必要があります。
分数が分からない中学生や高校生、いや、大学生もいます。分数は、小学校で習う新しい数です。3年生で始めて学習します。4年生を担任すると、分数の時間の一番始めに、いろいろな長さのテープを配り、「4分の1メートルの長さテープにしましょう。」という問題を出します。
30人いれば、30通りの4分の1メートルができます。4分の1は4つに分けた1つ分だと理解しているからでしょう。ですから、もう一度分数って何から学習を始めます。納得すれば、案外簡単なのです。
分数の学習では、分数の概念よりもも、通分や約分、計算の仕方に多く時間がとられています。
必然的に、覚え込みと習熟の学習になってしまいます。
子どもの発達に合わせて学習内容を計画し準備すると共に、学習目標が達成できるような時間を準備すること(これを教育課程・カリキュラムなどといいます)が大事なのですが、時計・九九・分数を考えただけでも、十分な配慮の下に教育課程が編成されているとは思えません。
学ぶ楽しさよりも、分かるための苦労を要求している教育課程・学習指導要領としか思えません。
8.通知表・評価の仕組み
4年ほど前ですか、指導要録の記入の仕方が変わりました。学習の評価は、早退評価から絶対評価に変わりました。多くの都道府県の先生達は、これを歓迎したと新聞報道などがありました。しかし、京都の先生達の多くは、疑問視しました。京都では、以前、到達度評価を行っていたからです。
相対評価とは、5段階に評価を割り振るものです。1は5%、2は15%、3は60%、4は15%、5は5%という具合に。ですから、テストで満点をとっても、必ず5になるとは限らないのです。予め割合が決められているので、いくら努力しても、いい点を取っても、他の人との比較ですから、その内に、序列が決まってしまいます。
それに対して、絶対評価は、点数によって、評価が決まっていて、95点以上なら5、80点以上なら4、60点以上なら3、30点以上なら2、30点未満は1というふうに。これなら、取った点数によって評価されるから、満点を取れば、誰もが5をつけてもらえることになります。
努力が報われるという点、実際の力に即して評価できるという点から、先生達には、歓迎されたのでしょうか。
しかし、これまでに見てきたように、3割の子ども達が分かればいいというような基準で作られている指導要領の下で、また、「ゆとり教育」という名の下で行われた授業時間数の削減による詰め込み教育の下で、更には、できる子には、できる子なりに、できない子はほどほどにという新学力観の下で導入された、絶対評価は、自己決定、自助努力、自己責任を評価の中に持ち込みました。
その結果、学力をつけるのは、学校ではなくて学習塾でという傾向が、総理府の調査でも、顕著に見られるようになっています。
どの子にも、基礎学力をという公教育の責任が、「教育改革」のなかで、ないがしろにされ、個人の責任に転化したことを如実に示しているのが絶対評価の導入ということができるのではないでしょうか。
通知表は指導要録ではありませんので、学校独自に子ども達を励ますものになるように工夫が凝らされきました。京都府の小学校では、今も、通知表の表題を「あゆみ」としてしている学校も少なくありません。これは、子ども達の学習や成長の後が、子ども達や保護者に分かりやすく知らせられるようにとの願いがこめられていました。
京都府の学校では、先生達の努力によりどの子にも確かな学力をと、学習単元、学習内容に応じて到達目標を決め、学習のあり方を工夫してきました。例えば、かけ算ならば、「2位数かける数の計算ができる」などと到達目標を決めて、到達できたかどうかを通知表に記入しました。単元の学習毎に、どの子が到達していないかが分かりますので、その子ができるようになるまで、先生が支援していくという取り組みもできました。
それは、京都府の教育行政が大きく変質した1980年以後、高校3原則に基づいた高校制度が大きく変えられて、競争と選別の教育が推進される中で相対評価に変えられ、今また、絶対評価に変えられました。
デンマークでは、1人ひとりの子どもの発達・成長課題に基づいた学習が組み立てられているため、小学校の段階には、学習評価制度はないそうです。
評価のあり方だけを見ても、子どもが大事にされているかどうかが分かるものです。
9.学校とは何か (2005.11.08)
これまで見てきたように、今日の学校教育は、学習内容は、おちこぼれを生み出して当然のように計画され、授業の形態では、能力によって選り分けられる仕組みがとられています。また、学校制度は、「教育改革」「規制緩和」の下に、エリート校を核とした再編が急速に進んでいます。
そうした中、子どもも親も必然的に競争に巻き込まれていく仕組みになっています。また、先生たちは、子どもたちを落ちこぼさないようにと努力を惜しみません。
その結果、3割の子どもが分かればいいと作られている教育課程の中で、小学校では、8割の通過率になっています。(これは、驚くべき努力の結果であるとともに、適切な教育課程なり条件があれば、ほとんども子どもに無理なく、確かな学力を保障できるということを証明しています。)
まさに、国連子どもの権利委員会が指摘したような過度な競争主義的な学校制度の下に子どもたちは置かれているのです。
しかし、それだけではありません。更なる仕組みが準備されているのです。それは、評価の中に「関心・意欲・態度」を一番に位置づけ、高校受験に大きく影響する「内心点」の中に奉仕活動や特別活動が大きな比重を占めるようにし、更に授業時間削減の中でも「道徳教育」はより重視され、「心のノート」まで作成され配布されるという、子どもたちの心をコントロールする教育が進行しています。そして、「総合的な学習の時間」というできる子はできる子なりに、できない子はできない子なりに、という息抜き、ガス抜きの時間さえ設定されています。このように子どもたちが過度の教育制度の枠からはみ出さない工夫がされています。
それでも、この教育制度からはみ出す子どもたちが出てくることにも備えがあります。このような下で、ストレスをかかえ、疲れ、意欲を失った子に対応するために、中学校や高校には、スクールカウンセラーが配置されるなどの配慮がされています。また、問題行動に走り、学校の秩序を乱す子どもに対しては、出席停止の処置が制度化されていますし、学警連携といって警察との連携が強化されています。
「学校文化(?)は、子どもたちに、がまん強さと適応力を要求します。」と言った校長がいます。この人は、京都府の総括指導主事までした方です。つまり、学校は、がまん強さやねばり強さがなければやってはいけません、ということです。
これは、今日の教育政策の矛盾の中にいる子どもたちが身につけなければならないことのようです。このために、いろいろな指導が行われています。
生活点検カード・忘れ物ゼロ運動・あいさつ運動・ベル着運動・頭髪・服装検査・居残り勉強などなど。
学校は、もはや、自分をのびのびと表現し、楽しんで学習するようなところや、可能性を伸ばしていくところではなくて、子どもたちが学校の基準に自らを適応させていかなければならないもののようです。
前教育課程審議会会長の三浦朱門氏の、「非才、無才、凡才は実直な精神さえ養っておればいい。」という言葉の実践でもあるかのようです。
このような教育制度・教育政策の下では、先生たちが一生懸命になればなるほど、子どもたちを追い込んでいくことになります。
今、学校は、子どもが子どもらしく居られる所ではなくなっているのです。
不登校の子どもたちは、心で、体で、学校のあり方を問いかけているのではないでしょうか
学校ばかりではありません。
子どもの生活そのものが、子どもらしく過ごせる場ではなくなっているのではないでしょうか。
A君は、小学4年生。学校に行っていません。いつも友達が学校から帰ってくるのを待ちわびています。
もう帰って来たころかな、と友達の家に電話をかけます。4時半過ぎのことです。
まだ帰っていないよ、と家の人の返事が返ってきます。
5時ごろになって、友達から電話がかかります。
もう、遅いから、今日は遊べない、と。
土曜日や日曜日には遊べるかというと、そうでもありません。
その友達は、少年野球のチームに入っていて、土曜、日曜は練習日です。
子どもの生活から、遊びがなくなって久しくなります。
家族と一緒に過ごせる時間を増やし、生活体験を豊かにしようと、学校5日制が施行されました。
しかし、土曜日も補習や授業、クラブ活動を行っている学校がほとんどで、土日が休みなのは小学校ぐらいです。でも、小学生の多くも、土曜日や日曜日は、スポーツクラブや学習塾通いが盛んです。
本当に、子どもの遊びがなくなりました。
それと同時に、子どもが子どもらしく過ごせる時間もなくなっているようです。
友達と遊んだり、自然の中で戯れたり、家の仕事を手伝ったり、ぼうっとしてみたりして、ゆったりとした時間と空間の中で、たくさんの体験や知識を手に入れることができたはずなのに、人との関わり方を学べたはずなのに、そんな時間や空間が子どもの周りから、本当になくなってしまいました。
それらを補うかのように、スポーツクラブや文化クラブに入ったり、地域の催しや事業に参加したりしますが、それらは、所詮、大人が準備したものでしかありません。
子ども自身から、子どもの時期、子どもの時代がなくなっているといえるのかもしれません。もはや、子どもの時期は、大人になるための訓練の時期の様相を呈しています。
この国の人々の暮らしから、地域の共同体が消え、家庭の団欒が消えると共に、子どもの時間と空間が消えていきました。
そして、子ども自身から、子どもの時期、子どもの時代がなくなっているといえるのかもしれません。
もはや、子どもの時期は、大人になるための訓練の時期の様相を呈しています。
不登校の子を持った親の多くが、「この子が不登校になったおかげで、家族のあり方、子どもの成長や幸せについて、考えることができるようになった。」と言います。
不登校は、子ども期の喪失をもたらしたこの国と、この時代が生み出した社会事象です。
不登校の子ども達は、家族のあり方、社会のあり方を、もう一度みんなで考え直そうと訴えかけているような気がします。