義家氏の「ヤンキ-先生のきょういく論」に対する意見
                              2006年5月26日


昨夜、「非行と向き合う親の会」の後で、Aさんに、

「野中さん、読みましたか。」
と声をかけられました。
「えっ、なにを?」
と聞き返すと、
「京都新聞です。義家さんの連載記事です。不登校のこともかかれているので、読んでみてください。」
と言われました。

家に帰って、早速、新聞を開いてみました。
京都新聞の「NIE」の紙面に「ヤンキー先生のきょういく論」というタイトルで載っていました。
今日(5月25日)が初回で、13回掲載されるそうです。

今日は主題は、「子どもの成長に『転ばせる』教育を」でした。

義家さん、「大人は、子どもの成長に責任を負わなければならない。」と言います。もっともなことです。
続いて、「すべての成長は、抵抗の中でこそ成し遂げられるものなのだ。」と持論を披瀝します。
更に続けます。
「子を思うが故、つい「転ばぬ先の杖」をその都度与えてしまいがちな自らを戒め、時に愛情と期待を込めて「転ばせる教育」をするこが教育者の責任であると私は思う。」
と。

抵抗の中でこそ成長する、ということの意味合いが、私には今ひとつ理解できませんが、何をおっしゃりたいかは、伝わってきます。よく言われていることですから。

昨日、私に、この記事を紹介されたAさんは、私にこの記事の何を知って欲しかったのでしょうか。

それは、たぶん、次の部分です。

「成長に責任を負おうとするならば、優しさと甘さをすり替えたような対応は決してできまい。理由も分からぬまま、その後の人生に大きな影響を及ぼすであろう不登校という選択を安易に受容することもできないはずだ。」

なるほど、「不登校を受容することは子どもの成長に責任を負っていないことだ。」と迫られている感じがします。

私は、この文章を読んで、”さもありなん”と思いました。これは、義家さんの持論なのです。
その持論には、自らの生い立ちやこれまでの人生が、色濃く反映されているのではないでしょうか。私にはそう思えます。

この部分の後に、先ほど引用した「すべての成長は、抵抗の中でこそ成し遂げられるものなのだ。」が続きます。

”なに、不登校なんて、わけのわからないことをやっているんだ”
”嫌なことがあれば、もっとはっきりと抵抗しろよ、俺みたいに。”
とでも、聞こえてきそうです。

義家さんは、大人の責任を問うているわけですから、
”あなたたちの、優しさと甘さをすり替えたような子育てが、子どもを不登校にしてしまったんだ”ということらしい。

しかし、私の知っている不登校の子ども達や不登校だった人たちは、きちんと自分の人生を歩んでいるし、
不登校の子ども達の親も、きちんと「子どもの成長に」向き合っています。

意気込んで教育を論じるのは、熱意の表れとも言えるから未だしも、不登校を引き合いに出すのどうかと思いますが、どうでしょう。

自分の教育論をいかように展開されても結構ですが、取り上げる事柄については、きちんとした検証が必要ではないでしょうか。

「NIE]は、新聞を教育にとして企画されている紙面だと思います。そこでの記述ですから、残念でなりません。

2006年5月26日

京都府亀岡市東つつじヶ丘曙台3丁目9−1
野中 博善


京都新聞(義家氏)への手紙


京都新聞社様

突然、このような形で、お手紙を差し上げることをお許しください。

実は、525日の貴社の朝刊に記載された記事について、異議があるのですが、どのようにして貴社に伝えていいものか術を知らず、直々、届けることにいたしました。

記事と言うのは、{NIE}の紙面に連載が始まった義家氏の「ヤンキ-先生のきょういく論」の記述についての不登校を取り扱った記述についてです。

義家氏が、どのような教育論を展開されるのも、私がとやかく言うことではありませんが、取材や検証のない主観的な意見は、あらぬ誤解や偏見を広めることにも繋がりかねません。まして、連載は、読者に対して、一方向的に書かれるのもであって、意見の交流などは予定されていません。

今回、義家氏が扱ったテーマならば、あえて不登校を取り上げるよりも、本質に迫る題材は、いくつもあるように思えます。あえて、不登校を取り上げたことに、納得のいくような説明もありませんでした。

次回以降で結構ですから、納得のいくような説明をされるよう、義家氏にお伝えくだされば嬉しく思いますし、また、別紙のような意見、苦情が来ていたことをお伝えいただければ幸いです。

2006年5月26日

亀岡市在住   野中 博善