不登校を成長の糧に
| 1.文部科学省の不登校対策 | 2.不登校は克服するもの?いえ・・・ | 3.不登校には意味がある |
| 4.不登校は夢を育てる時 | 5.学びへの欲求 | 6.不登校になったおかげで |
| 7.子どもの発達のもとは | 8.不登校を楽しもう | 9.不登校だからこそできることを |
1.文部科学省の不登校対策
「ゆとり教育」の推進によって、不登校問題はなくなるかのように描いた2003年の「不登校問題に関する調査研究協力者会議報告」から、3年が経過しようとしています。
しかし、不登校数の減少は3年間続きましたが、依然として小中学生の不登校数は、12万人を超えています。高校生までも含めると20万人近い不登校者数です。
これだけを見ても、文部科学省の目論見は完全に外れたといえましょう。しかし、文部科学省の「ゆとり教育」路線は、変わらないでしょう。「ゆとり教育」が不登校をなくすという背景には、個に応じた教育ができるからということでしょうが、「ゆとり教育」の本質は、エリート教育であって、競争と選別を特徴としています。そして、それは、ますます、子どもたちを競争に駆り立て、教育現場では管理主義がはびこることが目に見えています。
私には、文部科学省はそれさえもお見通しのように思えます。この間の文部科学省の不登校対策を見るとそれがわかります。
文部科学省が、ここ数年実施している施策を見てみましょう。
ア. スクールカウンセラーの配置
イ. 生徒指導加配(教育相談)の配置
ウ. 適応指導教室の設置
エ. スクーリング・サポート・ネットワーク作り
オ. フリースクールとの提携・ネットワーク作り
カ. 不登校への対応の事例集の作成
キ. 不登校フォーラムの開催
などです。
要するに、学校に来られない、来にくい子どもたちを学校内外で支援していく施策ばかりです。そして、それは、不登校を個人の性格、資質に起因するものとし、教育制度や教育課程など教育政策の責任を免除するものにほかなりません。
教育行政の姿勢が根本的に変わらない限り、もはや、不登校問題の解決を教育行政に委ねることはできません。
2.不登校は克服するもの?いえ・・・
2005.11.24
「不登校って克服するものなの?」と問いかけた青年がいます。
その青年は、小学生の頃から不登校でした。もう、かれこれ7年になりますか。
不登校だったことを苦にしたり悩んだりしていません。
今は、学びたい、勉強がしたいという要求が強くなっているといいます。
もうすぐアルバイトを始めるそうです。勤め先も決まっています。
この青年が、ある時、「不登校を克服する・・・」という文章に出会ったときに問いかけた言葉が、
「不登校って克服するものなの?」
でした。
じゃあ、今のぼくって、克服の対象なの?
今のぼくは、だめな人間ということ?
いまのままじゃ、だめってこと?
ぼくは、ぼくで、自分のことを一生懸命考えてやっているのに。
一体、ぼくの何を克服するの?
あれこれ考えて、みんなとのちがいを考えて、
多くの人と違うことは、学校に行っているか、いないかだけ。
じゃあ克服するって、学校に行くことなの?
学校って、息苦しいところなのに。
学校に行くと自分が駄目になりそうなのに。
学校に行っても、何一つ楽しいことがないのに。
克服するって、嫌なこと苦しいことに耐えるってことなの?
ぼくは、学校へ行かないことを選んだのに、
ぼくが、ぼくらしくいられるために、学校に行かなくなったのに。
それじゃあ、克服するって、ぼくが、ぼくらしくならないことなんだ。
不登校って、克服するものなの?
いえ、不登校は、・・・、不登校の時期は、大切にしたいもの。
3.不登校には意味がある
子どもが不登校になるのは、やはり、なるだけの意味があるのではないでしょうか。
私には、そう思えるのです。
不登校についてのさまざまな意見や考え方があります。
テレビを見ていると、不登校を引きこもりと同一視して話す人が多くいます。
新聞を見ていますと、不登校引きこもりの支援の活動やネットワークのことがたびたび報道されています。
しかし、私は、それらの報道や扱いに違和感を持たずにはいられません。
私の知っている、そして、私がかかわってきた不登校の子どもたちとどこか違うのです。
私の知っている子どもたちは、時間がかかっても、みな、自分の力で歩み始めています。
不登校であっても、子どもは子どもらしく成長、発達するものです。
そのために必要なことは、その子をありのままに理解することです。
ここからは、私の知っている子どもたちが、どのようにして自分の道を歩みはじめたかを簡単に紹介していきましょう。
まずは、私の娘の話からしましょう。
4.不登校は夢を育てる時 2005.12.12
私の娘は、小学校4年生の2学期から学校に行かなくなりました。
今は、高校2年生です。
私は、この子からたくさんのことを教えてもらいました。
この頃、不登校の6年間のことを時々話してくれるようになりました。
昨日は、こんなことを話していました。
学校へ行かなかったら、1日1日をどう過ごすか、すごく大変なんだ。
退屈しないようにするって、本当に大変だった。
そんな中でいろいろ考えていた。
一人でいたからあれこれ考えられた。
私は、学校へ行かない我が娘が1日1日をどう過ごすのかがとても楽しみでした。
毎日毎日、同じことのくり返しの中で過ぎていっても、
描く絵は、少しずつ変化していきました。
読む本もどんどん増え、広がりを見せていきました。
それを、6年間、約2000日やってのけたわけですから、
並大抵のことではありません。
今、イラストレーターへの夢を持って日々努力していますが、
その夢を育てたのは、6年間の不登校の経験でした。
自分のペースで、自分の夢を見つけ、そして、夢を追って歩もうとする
そんな娘に良く育ってくれたと喜んでいます。
不登校の時期は、自分を見つめ、自分らしさや夢を育てる大事な時なのです。
4.不登校は夢を育てる時 2005.12.12
私の娘は、小学校4年生の2学期から学校に行かなくなりました。
今は、高校2年生です。
私は、この子からたくさんのことを教えてもらいました。
この頃、不登校の6年間のことを時々話してくれるようになりました。
昨日は、こんなことを話していました。
学校へ行かなかったら、1日1日をどう過ごすか、すごく大変なんだ。
退屈しないようにするって、本当に大変だった。
そんな中でいろいろ考えていた。
一人でいたからあれこれ考えられた。
私は、学校へ行かない我が娘が1日1日をどう過ごすのかがとても楽しみでした。
毎日毎日、同じことのくり返しの中で過ぎていっても、
描く絵は、少しずつ変化していきました。
読む本もどんどん増え、広がりを見せていきました。
それを、6年間、約2000日やってのけたわけですから、
並大抵のことではありません。
今、イラストレーターへの夢を持って日々努力していますが、
その夢を育てたのは、6年間の不登校の経験でした。
自分のペースで、自分の夢を見つけ、そして、夢を追って歩もうとする
そんな娘に良く育ってくれたと喜んでいます。
不登校の時期は、自分を見つめ、自分らしさや夢を育てる大事な時なのです。
5.学びへの欲求 2005.12.13
単調な毎日、だらだらとした生活リズム。
そんな子どもの様子を毎日見ているととても不安になるのではありませんか。
でも、そんな日々のくり返しの中でも、子どもは、確かに成長していきます。
学びたいという思いは、子どもが生まれながらにもつ基本的な欲求です。
不登校になったからといって、なくなるものではありません。
むしろ、不登校ゆえにより強く涌き出てくるように思えます。
不登校の時間を過ごしていても、1日1日子どもは成長していきます。
国語や算数などの学習として表れないけれど、
学びへの欲求は様々な形で表れます。
絵を描いたり
マンガを読んだり
読書をしたり
物まねをしたり
料理をしたり 等など。
そして、これらは、発達への欲求でもあります。
コラらの活動を通して、子どもは、自我を形成していきます。
思春期をむかえると更なる自我の形成や自立に向けた準備を始めます。
当然、自分の進路についても考え始めます。
「ぼくも勉強がしたい。」
といって、単位制高校へ進学したY君。
「ぼくも高校へ行きたい。」
といって、勉強をはじめたA君。
入学試験は合格したけれど、高校へは行かずに働き始めたM君。
みんな、自分が何をしたいか、何ができるか、自分で決めていきました。
不登校だったから、条件は厳しいものです。
でも、自分の力で進路を切り開こうとしています。
自分の人生の主人公として。
不登校だったがゆえに、自分らしい価値観を育んできたのです。
6.不登校になったおかげで 2005.12.14
この子が不登校になったから、
教育って何か、成長って何、と真剣に考えられるようになった。
この子が不登校になったから、
この子に真正面から向き合えることができた。
この子が不登校になったから、
家族って何かを考え合えた。
W君が不登校になったのは、小学校6年生の時。
お母さんは、自分の子育てを責めました。
周りの人からも、母親のせいだといわれました。
家族の中でも責任のなすり合いがありました。
担任の先生は、毎日尋ねてきました。
お父さんやお母さん、時にはおばあさんを交えてよく話しました。
学校に行かないW君の気持ち、
毎日のW君の生活の様子をお互いの目から交流しました。
おばあさんが、W君の様子をうまく表現しました。
成長過程の疲れ、葛藤
そうこうして、3ヶ月が過ぎたころ、
家族の様子が変わってきました。
家族の振り返りが始まったのです。
それぞれが忙しくて、一緒にごはんを食べることもない。
せめて晩御飯ぐらい一緒に食べるようにしようか。
家族の会話も弾むようになりました。
W君の気持ちも分かり合えるようになって来ました。
W君の不登校を通して、家族が絆を深めました。
7.子どもの発達のもとは、親の愛情と理解 2005.12.15
不登校の時期をどのように過ごすかは、とても大切です。
不登校を理解することは、とても大変なことです。
学校へ行かないことを受け入れることは、並大抵のことではありません。
まして、不登校が成長の糧になるなんて、思えるはずもないでしょう。
でも、不登校の時期でも、子どもは成長します。
私の経験からですが、確信をもって言うことができます。
子どもは、だれでも、必ず、成長、発達する可能性を持っています。
それは、学校に行くか、行かないかによって左右されるものではありません。
子どもが本来持っている可能性です。
不登校になると、どうしても学校へ行かせようとしますし、勉強のことが心配になってきます。
そして、それに気を取られている間に、
子どもを苦しめたり、子どを追い詰めたりしてしまいます。
時には、子どもの心身に変調を来すようになります。
鬱の状態になったり、閉じこもったり、時には、暴力的な言動になったり。
これらは、不登校だから起きることではなく、
また、その子の性格や資質によって起こるものでもありません。
子どもが追い詰められることによって起こるものだと、わたしには思えます。
子どもを追い詰める背景には、
学校に行かないと、子どもは成長できないように思ったり、
自立できないかのように思ったり、
引きこもってしまうのではないかと考えたりする傾向、風潮が、社会一般にあるようです。
そして、不登校と引きこもりを関連付けて論じ、不安を煽る人達が後を絶ちません。
しかし、それらには、なんの根拠もありません。
むしろ、私の知っている子ども達は、不登校の時期を乗り越え、自らの進路を切り開いています。
そして、その子どもたちに共通するのは、親の理解と愛情に支えられていることです。
8.不登校を楽しもう 2006.1.12
これまで見てきたように、、子ども達が学校に行きづらくなっています。
それは、子どもたちのせいではありません。
でも、なぜか、子どもが学校に行かなくなると、子どもに原因を求めたり、親の育て方の問題にされてしまいます。
学校に戻ること、学校に行くことが不登校からの出口、不登校の解決と考えられがちですが、
そのために、どれだけ、子どもが傷つくかは、顧みられることがほとんどありません。
精神主義的な対処法が、まだまだまかり通っています。(その方が、楽ですから。指導する側は、傷つくことがないから。)
今から、150年年ほど前に、吉田松陰という教育者がいました。高杉晋作や久坂玄瑞などの明治維新の志士たちを育てた人です。吉田松陰は、教育の大切さを説きました。自ら、山家獄に囚われた時にも、囚人達と共に学び合った人ですから、学ぶことの尊さを、身をもって知っていました。松陰は、18才までは、誰もが自由に学べるようにするべきだと考えました。人間は、18才頃には、1人前の大人として、自立できることを知っていました。だから18才までは、学ぶ期間と考えたのでした。松陰の言う「学ぶ」とは、松陰が山家獄や松下村塾で行ったことから想像がつくでしょう。
そのまた100年ほど前には、フランスでジャン・ジャック・ルソーが「エミール」を著し、子どもの教育の必要性大切さを語っています。1人ひとりの子どもが大人になっていくために葉、教育が必要不可欠だと、具体的な教育のあり方を示しながら書いています。
教育は、子どもが、人間的に自立していくためのものだということで、2人は共通しています。
しかし、今日のわが国の学校教育には、このような視点があるでしょうか。
能重先生が言われるように、子どもが学校に不適応なのではなく、学校が子どもに不適応を起こしているのが、、わが国のk学校教育の現状です。
学校に行かないのなら、行かないでいいのではないかと思います。
それよりも、1日1日のかけがえのない時間を、、子どもらしく、過ごせることのほうが、どれほど子どもにとって良いものか。
9.不登校だからこそできることを 2006.1.14
学校に行かないのなら、行かないでいいのではないか。
それよりも、1日1日のかけがえのない時間を、、子どもらしく、過ごせることのほうが、どれほど子どもにとって良いものか。
学校に行かなかったら、1日24時間、自由に使えます。
あなただったら、、どんな風に使いますか。
翻って、考えてみると、いろんな時間の過ごし方をしている人が案外いるものですよ。
例えば、サッカー日本代表のI選手は、単位制の高校に行きました。ずっと、サッカーができるからです。
発明王エジソンは、むしろ、学校の先生から、学校へくるなと言われた人でした。
多くの大人も、学校で勉強したことが何の役に立つのか、説明できないでしょう。
まして、何のために勉強するのか説明できる人がどれだけいるでしょうか。
学校へ行ったから自分の道が切り開けるものではないでしょう。
学校へ行けなくても、自分の道は歩いていけます。
自分が納得できる生き方は、自分が決めることですから。
だったら、せっかくの不登校を、自分自身のために、使ったらどうでしょう。
学校へ行かせることに気を使わないで、
学校へ戻らそうと焦らないで、
不登校の時間を、子どもの自由な意志に任せてみてはどうでしょう。
子どもは、大人が思うほど、いいかげんじゃありません。
子どもは、自分から、成長を欲して行動します。
親の揺るがぬ信頼と深い愛情を肥やしにして。