少年事件の視点
2006.4.24
週刊文春に「情熱日誌」をヤンキ−先生こと義家先生が執筆しています。今回(4月13日号)の見出しは、“武道の必修化”で、「父親に叱られたことに恨みを持ち、自宅に放火をした少年」の事件等を取り上げています。この事件は、3月9日未明、東京都世田谷区の中学2年生の少年が自宅に放火し、家族3人を死傷させたものです。義家氏は、この事件を「ゲームが上手くいかないときにリセットするかのような事件」ととらえ、その背景として痛みを伴わないバーチャルリアリティの世界をあげています。義家氏は、このような事件を防ぐ為に「痛みの教育」の必要性を説いています。そして、痛みの教育として“武道”を推奨しているのです。
義家氏のこの文章を読んで、愕然としたのは、私だけではないと思います。教育への熱情、子ども達への熱い思いはどこに行ってしまったのだろうかと、寂しさを覚えずにはいられません。
ニュースキャスターの木村太郎氏は、義家氏と同様“キレやすい少年”に注目し、キレやすさの解明こそ大事と主張していました。そして、キレない子どもにする為の対策をとることを訴えています。少年事件を“キレる子ども“という視点でとらえようとする傾向が強いようです。
しかし、この中学生放火事件は、その知り得る情報からは、キレやすさが引き起こした事件というよりも、むしろ、いじめなどにより傷つき、不登校になり、自己を否定するような周りの人たちの対応によってさらに傷つき、人間不信になり、精神的に追い詰められた挙げ句の事件といえるのではないでしょうか。
傷つき不登校になった少年の心に寄り添うこともできず、形式ばかりの対応をし、無理やりに学校へ行かそうとした大人たちが、少年の心の叫びを聞き取ることもできず、少年を絶望の淵に追いやったのではないのでしょうか。家庭、学校、警察、児童相談所、これらのどこかが少年の心休まる場所であったなら、この事件は起きなかったかもしれません。
“キレる子ども”という視点から事件を見れば、事件の本質を見誤るばかりか、この事件が鳴らしている社会への警鐘にも気付くことができないでしょう。