少年事件を考える


またもや、少年・青年が引き起こした事件が相次ぎました。

しかし、これまでと違って、マスコミやテレビはあまり大騒ぎをしません。

ニュース性に乏しいわけではありません。
騒ぎ立てるネタに乏しいのではないのでしょうか。
面白おかしく、あるいは、興味本位で取り立てることができないのではないかと思われます。

情報が限られています。
少ない情報の中にも、事件の深刻さが、垣間見られます。
それは、連続した事件が、いずれも日常生活を背景にしていることです。
そこに見える人間関係は、だれもが日常的に結んでいる関係なのです。

山口・光高校の事件は、日常のいじめや嫌がらせを背景としています。
東京の高校1年生による両親殺害は、父親の強圧的な姿勢が契機となりました。
高知・明徳義塾の同級生への傷害事件でもいじめなどが背景にあります。
弟による兄殺害事件も兄の強圧的な態度が引き金となりました。

親子、兄弟、同級生というありふれた人間関係の中に起こった事件です。
その日常性の人間関係の中に事件を引き起こす要因がありました。
いじめであり、強圧的な姿勢であります。
それらは、人間としての尊厳を著しく害うものであります。

いずれの事件の加害者も、まじめで、おとなしい中学生であり高校生だと言うことです。
また、勉学の方も、優れていると言うのが共通点です。
どこにでもいる、普通の中学生、高校生だと言うことです。

実は、ここに、事件の深刻さがあります。

あるテレビ報道では、この事件の核心をテレビゲームに持っていこうとしましたが、
番組内でも異論が出ました。
また、他の番組では、コメンテーター「まじめでおとなしい」ということは非社会的だとして、
非社会的な性格の持ち主が事件を引き起こしたのだとばかり主張しました。
だとすれば、世の中のほとんどの子どもが加害者となりうるということです。

まじめでおとなしいことが非社会的という指摘は、的外れもいいところです。
しかし、「ごく普通の」子ども達が、事件を起こしているということは、大事な視点です。

事件の加害者は、かなりの期間、いじめや強迫に対して我慢を重ねてきたようです。
その間の心情をホームページに綴っていた少年もいました。
苦しみを、悩みを一人で抱え込み、もがく姿が想像されます。

苦しみから逃れ、悩みを解決する手段として、彼らが選んだのは、殺人でした。

ここにいたる苦悩と解決の方法にこの事件の核心があるように思えます。

多分に情緒的になりますが、
横井久美子作詞・作曲 「少年」を聴いてください。

少年がただ一人 地の底にうずくまり
ひび割れた土を見つめ 落とした涙ひとつ
少年は何を見て 涙を落とすのか
光が愛が見えず 涙を落とすのか
  愛はどこにある 光はどこにある
  愛はどこにある 光はどこにある

少年が群れとなり 荒野を歩いて行く
果てもない暗闇を 孤独の影におびえ
少年は何を見て 歩いて行くのか
空っぽのこの町を 足どり重く
愛はどこにもない 光はどこにもない
愛はどこにもない 光はどこにもない
けれど少年よ
君が君を愛さなければ
だれが君を愛するのだろう
そうさ君こそ光なのだ

少年が影となり いくつも重なって
蘇る日を待たず いつか消えてゆく
ふさがれたこの未来 閉ざされたこの世界
荒れ果てたこの時代 引き裂かれた少年
愛はどこかにある 光はどこかにある
愛はどこかにある 光はどこかにある
だから少年よ
君が君を愛さなければ
だれが君を愛するのだろう
そうさ君こそ光なのだ